法政大学弁論部
創部は明治18年(1885年)11月、法政大学の前身、東京法学社校内に設置された中央法学会(会主薩埵正邦主幹)における討論会、さらには 明治21年3月、第一回五大法律学校連合大討論会などが弁論部発足の背景になったといわれています。その後、明治38年(1905年)11月には法政大学 第一回雄弁会が行われています。 又、定期的に他大学、専門学校を招いて弁論大会や旧制中学校の弁論大会を開催しています。さらに法政大学のPRと若者への啓発を兼ねて夏休みには全国を遊説するなどの活動をしてきました。 しかし、法政大学弁論部は時代の流れの中で一度廃部に至るも、5年前に再建を果たしました。法政大学弁論部は伝統と新鋭とを両肩に、日々切磋琢磨し雄弁道の研鑽に励んでいます。 |
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立命館大学弁論部
我々立命館大学弁論部は立命館大学の公認団体として登録されているサークルです。我々は立命館大学で活動しているサークルの中でも非常に長い歴史を持って いるサークルで、その活動内容としては、ディベートと弁論・スピーチの二つを主たる活動内容とし、それぞれのセクションで活動しています。 普段はディベート・弁論それぞれの大会に向けての資料 作りなどの準備を行ったり、興味のある内容についてディスカッションしたりするなど活発に活動しています。またセクション分けはあるものの、双方の活動に とくに隔たりがないゆえに、お互いがお互いの分野の大会や練習会に参加し、ディベート・弁論両方の力をつけていく部員が比較的多数いることも立命館大学弁 論部の特徴です。
我々立命館大学弁論部は立命館大学の公認団体として登録されているサークルです。我々は立命館大学で活動しているサークルの中でも非常に長い歴史を持って いるサークルで、その活動内容としては、ディベートと弁論・スピーチの二つを主たる活動内容とし、それぞれのセクションで活動しています。 普段はディベート・弁論それぞれの大会に向けての資料 作りなどの準備を行ったり、興味のある内容についてディスカッションしたりするなど活発に活動しています。またセクション分けはあるものの、双方の活動に とくに隔たりがないゆえに、お互いがお互いの分野の大会や練習会に参加し、ディベート・弁論両方の力をつけていく部員が比較的多数いることも立命館大学弁 論部の特徴です。
早稲田大学雄弁会
早稲田大学雄弁会は創立以来110年以上の長きにわたって、経国済民の志を有する情熱と実践力とに溢るる学生たちが集い、議論する場として、その歴史を紡いできました。 1901年、足尾銅山鉱毒事件に際して疲弊する農民と荒廃した大地に有様に涙し、その窮状を「演説」という手法を通じて広く世に知らしめた学生たちの活動が、雄弁会の母体となっています。彼らの問題意識は時の明治政府をも動かし、学生の言説が一世を動かす本邦初の経験を歴史に刻みました。 「我が国には能弁家や達弁家は多いが、真の雄弁家は殆ど見当たらない。我々は事実の説明家や思想の叙述者を以て満足してはならない。宜しく輿論を喚起し、一世も動かすような雄弁家を作らねばならない」 早稲田大学建学の母として知られる小野梓先生の上記の言葉から「雄弁会」と名付けられた当会は初代総裁に大隈重信老侯、初代顧問に高田早苗博士、初代会長に安部磯雄教授という錚々たる面々を戴き、社会的実践を基調とする実践集団として一世紀もの間、日本社会と共にその歩みを進めてきました。雄弁会を巣立った先輩方の活躍は、政治の舞台のみならず、広く日本社会の発展に大きく寄与してきています。 |